2012'06.24 (Sun)
いざ、聖地 高熊山へ

王仁三郎氏の生家 瑞泉苑あたりから見た高熊山。
地図上には、高熊山はありません。
王仁三郎氏は、27歳の時、小幡神社の神さまから、高熊山に登るよう
神託を受けます。
そして明治31年、旧暦2月9日より1週間、飲まず食わずで霊界を
旅することになります。

春だというのに、なぜかここひと株だけ、ススキが。
それもぐるりと先っぽが渦を巻くようなススキ。
本当に、この道でよかったのか、一抹の不安を胸に、高熊山を目指します。

すると、「高熊山登山口」とありました。
おーー、良かったです。間違ってない(笑)。
霊界物語には *****
高熊山は、上古は高御座山(たかみくらやま)と称し、のちに高座(たかくら)といひ、
ついで高倉(たかくら)と書し、つひに転訛して高熊山となったのである。
丹波穴太(たんばあなお)の山奥にある高台で、上古には開花天皇を祭りたる
延喜式内(えんぎしきない)小幡神社の在つた所である。
*****
とあります。
つまり、小幡神社は高熊山で、高熊山は小幡神社なのです。
ところどころ、美しいつつじの花を見ながら、一路、岩窟を目指します。

三つ葉つつじは、瑞の御霊(みずのみたま)と霊界物語にはあります。
20分くらい歩いたでしょうか。
やっと山頂にたどり着きました。

これが通称:ガマ岩
この岩の下で、王仁三郎氏は修行したとあります。

ガマ岩の下には、亀岡の町を見下ろせる、坐禅にちょうどいい岩がありました。
たぶん、王仁三郎氏も、この岩に座って修行したのでしょう。

そして、こちらが、有名な岩窟です。
大本事件の折、この場所も破壊の対象になり、修行した当時とはだいぶ様子が
変わってしまっているようですが、当時の面影は今も残ります。

高熊山
祭神:大本皇大御神(おほもとすめおほみかみ)
瑞之御霊大神(みずのみたまおほかみ)
称へ方:おほもとすめおほみかみ 守(まも)りたまへ幸(さき)はへたまへ
みずのみたまのおほかみ 守(まも)りたまへ幸(さき)はへたまへ
惟神(かんながら)たまちはへませ
大本の出口王仁三郎氏が、ここで修業した、という風に見られがちですが
正確には、27歳の青年 上田喜三郎氏がここで修業をし、霊眼を身につけ
その後、出口なを と会い、出口王仁三郎という名前になっていくのです。
霊界物語
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2012'06.23 (Sat)
瑞泉苑、王仁三郎はここで生まれた

産土(うぶすな)の小幡神社から北へほんの少し上がったところに、明治4年(1871年)
出口王仁三郎氏(旧名:上田喜三郎)が生まれた生家があります。
この場所も、昭和10年の第二次大本事件で、数百人ともいわれる警官が一気に訪れ
めちゃめちゃに破壊され、生家自体は今は存在しませんが、この場所は聖地として
今も守られています。
⇒ 国家による宗教弾圧 大本事件

祭壇の奥、石塚のある場所が、生家のあった場所として、今も祀られています。
数多くの人が祈りをささげている場所であることがわかりますが、
ここに来られる方の誰もが、この場所で過去に行われたことを悲しく思い、
祈るようで、悲しさがいっぱい残っています。

こちらが、出口王仁三郎氏 生誕の折、産湯を浸かった「玉の井」です。
140年ほど前、幕府から新しい日本の幕開けが訪れたころにフラッシュバックし
なんとなく赤ちゃんの産声が聞こえてきそうな感じがします。
王仁三郎氏が生まれた3年後の1874年と1882年にも、つい最近2004年6月8日と
2012年6月6日に起こった「金星の太陽面通過(ヴィーナス・トランジット)」が
起こっており、江戸時代から明治維新への変革、そして今は地球レベルの
建て替え立て直しと、何か、因果をも感じさせられます。

その当時、細々と暮らしながらも、上田家はしあわせな日々であったことでしょう。
しかし、神がかりなその赤ちゃんの波乱の将来と、最終的に、国権によって
この家が無残に破壊されることになるなんて、父も母も、思わなかったことでしょう。

事件で破壊されてしまった生家の瓦が、今も敷地内のあちこちに残っています。
家紋は、○に十字。
占星術で太陽系の星を表す時、地球がこのマークになるのも偶然ではないでしょう。
⇒ 惑星のマークはこちらをご参考に

敷地内に立てられていた石碑も、大本事件でその文字はえぐり取られ、無残に
倒されたまま70年が過ぎ、当時の面影を残したまま横たわっています。
なんだか、とても悲しい歴史をそのまま、今に遺す、瑞泉苑でした。

西は半国東は愛宕南妙見
北帝釈の青山屏風を
引き廻し中の穴太で牛を飼う
父よ恋しと西山見れば山はさ霧に
包まれて墓標の松もくもがくれ
晴るるひまなき袖の雨
昭和九年七月十二日 出口王仁三郎
幼少のころから小幡神社に接してきた王仁三郎氏に小幡宮の神が下り、
大きな転機が訪れるのは27歳の時です。
出口王仁三郎の示した未来へ
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2012'06.21 (Thu)
出口王仁三郎の産土、小幡神社へ

産土を、みやげ、って読んだ方、残念でした。
みやげ、は、土産です。f^_^;)
産土は、うぶすな、が正解です。
お守りしてくれる、その土地の神様です。
沼島、おのころ神社を後にして、一路淡路島から京都亀岡へ。
ここは、小幡神社。
かの、大本聖師 出口王仁三郎氏 の産土神社です。
3日前に、ひょんなことからふと思い立って、ここに来ました。
本当に最近、計画立てないな~。笑
本当にインスピレーションだけで動くようになってしまいました。^^;
亀岡市曽我部町穴太(あなお)。もともとは、穴穂といって、稲がたくさん
とれる実り豊かな土地であり、古くからの藤原の里です。
この穴太出身には、あの有名な画家 丸山応挙もおり、出口王仁三郎氏の
先祖に当たります。
応挙は、もともと上田主水という名であり、王仁三郎氏の本名、上田喜三郎と
同じ性であることがわかります。
【巨匠の描く美の世界】「雨竹風竹図」 丸山応挙筆 重要文化財

この小幡神社から2~300m行ったところに、今は瑞泉苑(ずいせんえん)
と呼ばれる、王仁三郎氏の生家(跡)があります。
後ほど訪れてみましょう。
小幡神社にある、通称:おばけ灯篭(とうろう)は、王仁三郎氏が幼少の頃
遊んでいたと聞いたことがあります。

この神社は昔は小幡宮と呼ばれており、現在の社殿は1683年に
造られたものです。
この神社の裏山は古墳になっており、3つの勾玉と剣などが出土しており
東京博物館だったかに展示されているようです。
つまり、この場所は昔からそれなりに霊的波動の高い場所だったのです。

最後に、小幡神社 由緒書より。
*********
当社は、崇神天皇の命により派遣された四道将軍のひとり、丹波地域を治めた
丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神として祀ったことに始まるといわれ、
開化天皇の御子の彦坐王とその御子小俣王の三代を奉斎しています。
また社伝等によると、和銅元年(708)に、丹波国司大神朝臣狛麻呂が
霊域に社殿を建立され、延長5年(927)に編纂された『延喜式』
「神名帳」にも記載された古社です。
社蔵の棟札によると文和元年(1442)には管領細川政元の本殿造営と
その後明応元年(1492)を始めとする修造、屋根葺替えが行われています。
現在の社殿は、天和3年(1683)に造立された一間社流造、檜皮葺の
建物です。
亀岡市内で妻に二重虹梁大瓶束を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財
となっています。
また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。
*********

なんだか、この穴太という場所は、はじめてきたような感じが全くしない
懐かしさの漂う土地でした。
まあ、私の生まれた田舎に似ているからかもしれません。
いずれは田舎で、ゆっくりと時を過ごしたいものです。
出口王仁三郎の遺言
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