2012'06.23 (Sat)
瑞泉苑、王仁三郎はここで生まれた

産土(うぶすな)の小幡神社から北へほんの少し上がったところに、明治4年(1871年)
出口王仁三郎氏(旧名:上田喜三郎)が生まれた生家があります。
この場所も、昭和10年の第二次大本事件で、数百人ともいわれる警官が一気に訪れ
めちゃめちゃに破壊され、生家自体は今は存在しませんが、この場所は聖地として
今も守られています。
⇒ 国家による宗教弾圧 大本事件

祭壇の奥、石塚のある場所が、生家のあった場所として、今も祀られています。
数多くの人が祈りをささげている場所であることがわかりますが、
ここに来られる方の誰もが、この場所で過去に行われたことを悲しく思い、
祈るようで、悲しさがいっぱい残っています。

こちらが、出口王仁三郎氏 生誕の折、産湯を浸かった「玉の井」です。
140年ほど前、幕府から新しい日本の幕開けが訪れたころにフラッシュバックし
なんとなく赤ちゃんの産声が聞こえてきそうな感じがします。
王仁三郎氏が生まれた3年後の1874年と1882年にも、つい最近2004年6月8日と
2012年6月6日に起こった「金星の太陽面通過(ヴィーナス・トランジット)」が
起こっており、江戸時代から明治維新への変革、そして今は地球レベルの
建て替え立て直しと、何か、因果をも感じさせられます。

その当時、細々と暮らしながらも、上田家はしあわせな日々であったことでしょう。
しかし、神がかりなその赤ちゃんの波乱の将来と、最終的に、国権によって
この家が無残に破壊されることになるなんて、父も母も、思わなかったことでしょう。

事件で破壊されてしまった生家の瓦が、今も敷地内のあちこちに残っています。
家紋は、○に十字。
占星術で太陽系の星を表す時、地球がこのマークになるのも偶然ではないでしょう。
⇒ 惑星のマークはこちらをご参考に

敷地内に立てられていた石碑も、大本事件でその文字はえぐり取られ、無残に
倒されたまま70年が過ぎ、当時の面影を残したまま横たわっています。
なんだか、とても悲しい歴史をそのまま、今に遺す、瑞泉苑でした。

西は半国東は愛宕南妙見
北帝釈の青山屏風を
引き廻し中の穴太で牛を飼う
父よ恋しと西山見れば山はさ霧に
包まれて墓標の松もくもがくれ
晴るるひまなき袖の雨
昭和九年七月十二日 出口王仁三郎
幼少のころから小幡神社に接してきた王仁三郎氏に小幡宮の神が下り、
大きな転機が訪れるのは27歳の時です。
出口王仁三郎の示した未来へ
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